名治(めいじ)二十二年陰の暦、早花月朔日(さはなづきついたち)。
帝都清華の五公家筆頭である空我別邸が何者かの手によって襲撃された。柑橘類の果樹が植えられた芳しい林に囲まれた洋風建築は火を放たれ灰と化してしまったという。焼け跡からは別邸で働いていた使用人全員の遺体が発見されている。
さいわい、本宅で暮らす正妻の実子と長女の梅子、跡取り息子で行方知れずになっている父侯爵の樹太朗に代わり仕事を行っている柚葉は無事だったが、別邸で暮らしていた愛妾の娘がひとり、行方を眩ませていた。事件の詳細を思い出した小環は、きつく唇を噛みしめる。
憲兵はすでに殺されたかもしれないなどと言っていたが、それは他の華族へ情報を拡散させないための嘘だ。ほとんどの人間はそれを信用しないで次の手を打ち始めていた。
無論、国の頂点に座している皇一族も例外ではない。
――小環(しょうわ)よ。天女の存在を古都律華に食わせることも、帝都清華の鳥籠に再び閉じ込めることも許さぬ。あの娘を政争の火種にするとは罰あたりも甚だしい。そなたの手で捕らえ、断罪せよ。 皇一族を差し置いて、ふたつの政治勢力は反発するように膨らんでいた。いつかは激突するであろうと恐れていたが…… 「なんなんだ、天神の娘って」 その原因が、清華五公家の頂点に君臨している空我当主の愛妾が産ませた娘にあるとは小環には納得がいかない。 てっきり、伊妻の残党狩りを命じられたのだと思っていたが、話はそう単純なわけでもなく、あちこち複雑に絡み合っているようだ。手がかりはこの開発途上にある北海大陸に眠っているという眉唾ものの天女伝説と一部の華族間で評判になっているある施設の存在のみ。どちらも中途半端な情報である。 だが、立ち止まって考えているばかりいるのは性に合わない。まずは父に命じられたとおり、陸軍に合流して、それから体制を整え潜入する。 ――お前は時の花の蕾を持つ者。神に孕まされる前に、孕ませろ。 父皇が去り際に呟いた不気味な言葉を思い出し、* * * 伊妻の乱が起きて、伊妻一族は滅んだとされている。 だが、そのときの生き残りがいまになって動き出している。天神の娘の到来を待っていたかのように。否。「天神の娘が来ることを、彼らは知っていた」 なぜなら、空我桜桃は襲われて北海大陸へ逃げて来たのだから。彼女を襲わせたのは川津実子とされているが、古都律華の川津家は神皇帝の正妃である水嶌家出身の冴利から天神の娘を殺すよう命じられたに違いない。そしてその冴利は伊妻に縁のある『雨』の部族の有力者、種光という男からその話を持ち込まれたと考えていいだろう。 川津家当主の蒔子は至高神の末裔など不要だと実子に委ね、実子は暗殺者を雇った。だが、暗殺者は実子の息子、柚葉に返り討ちにあった。実子もまた、その罪を被されるように消されてしまった。消したのは冴利の手のものだろう。蒔子もこれ以上の介入を良しとせず、手を引いている。もしかしたら手切れ金でも送られていたのかもしれない。こうして古都律華の川津家は天神の娘をめぐる争いから枠を外れた。北海大陸を拠点としている御三家の鬼造に任せることにしたのだろう。 そして舞台は天神の娘の始祖が暮らしていた北の土地、カイムに移る。そこで彼女は自分の存在意義が帝都の政争だけではないという事実を知らされ、そこに土地神の怒りを鎮めようと神嫁という名の生贄を提案した『雨』や、古都律華に属しながらも『雨』に従う鬼造、皇一族との繋がりを大切にし、天女の到来を祈って春を乞う『雪』、カイムの民を担う神職に就く逆斎の人間が関わっているという状況に巻き込まれてしまった……至高神の血を唯一受け継ぐというだけの少女に、周囲の人間は必死になっている。それはなぜか。 小環は暗闇を怖がる桜桃のちいさな手を握ったまま、そんなことを考える。美生蝶子が学校を去ったときに四季とふたりきりで会話をしてから、ずっと疑問に感じていたことだ。「小環?」 「お前は、ほんとうに何のちからもないのか」 座敷牢は、校門から入ってすぐの学舎とその奥に繋がっている寮や浴場などの建物が混在している場所からずいぶんと離れた場所にあるらしい。消灯時刻を狙って外に出た小環と
* * * 薄暗くて冷たい牢内で、雁はじっと蹲っていた。外気とほぼ同じ気温でこのまま凍死してもおかしくない状況のなか、鬼造姉妹が準備した食事におそるおそる手をつける。 温かかったであろう味噌汁はすでに冷めていたが、喉元に流れ込む塩味が自分の生存の証のように感じられた。 土を掘削して造られたそこは地下牢に違いないだろうが、土の上に茣蓙が敷かれているため座敷牢だと鬼造姉妹は口にしていた。姉のみぞれは雁を嗜虐的な視線で攻撃し、妹のあられは被虐的な態度で顔を歪ませながら。けれど、暗示にかけられたままの雁からすれば、どちらの態度も気にならない。 黙って味噌汁を啜っていると、ふいに柵の向こうが明るくなった。何事かと顔をあげると、見知った顔のふたりの少女が煌々とした橙色の松明を片手に石段を降りてきたところだった。「あら……ずいぶん弱っちゃったわね」 この声は誰だったか。女学校で何度もやりとりをした馴染みのある声色に雁の表情が軟化する。「でも、明日には解放されますから」 にこやかに続けるのは鬼造姉妹の片割れ。身長が低いので、姉のみぞれだろうと雁はあたまの片隅で認識する。だとすると、隣にいるのは慈雨だろう。すこしだけあたまのなかが鮮明になる。ふたりがここにいるということは、自分の処遇が決まったということだろう。「嫁入りの儀式を行います。『雪』であるあなたがまさか神嫁になるなんて……」 「みぞれ、いまの彼女には何を言っても無駄よ」 みぞれの言葉に応える慈雨はくすくす笑う。何がおかしいのか雁には理解できない。けれどその笑い方やひとを小莫迦にしたような態度を、雁は確かに覚えていた。「さよならを言いに来たの。これは餞別」 みぞれが取り出し、柵の間から差し出したのは無色透明な硝子玉だった。「冴利さまが調合してくださった『雨』の部族の、ごく一部の者だけに伝わる秘薬ですって。これを飲めば、苦しむことなくあなたは神嫁になれるわ。儀式の朝になったら、飲みなさい」 みぞれがどこか誇らしげに差し出してきたその薬は、天神の娘を殺そうとした
カイムの民のなかには「ふたつ名」を持っている人間もいる。ひとつの名前にふたつの意味を込めて名付けられたもので、その名を使い分けることで潜在能力を突出させることができるという古くからのまじないに近いものだ。いまでは殆ど廃れてしまったが、『雪』の部族の一部ではその名残が見受けられる。寒河江雁が狩という名を持ち狩猟に秀でた能力を開花させていたのは校内でも有名な話だ。逆井一族の多くもふたつ名を使い分けている。「別におかしいことはないと思うが」 「ふたつならまだいいのよ。あんたの場合、ふたつ名じゃなくてよっつ名でしょうが!」 呆れたようにかすみは四季の名を唱える。 ひとつは、四つの季節という意味でのシキ。 もうひとつが、逆さ斎としての賢者であれという意味での識(シキ)。 それから数多の神々と渡り合う上で必要とされる能力、式(シキ)。 そして。「三つでやめておけ。四つ目を知る人間はその運命を狂わせる」 「もうあなたに関わったせいで充分狂ってるわよ。このちからで帝都を覗くなんて考えたこともなかったのに」 ぷいっと顔を背けてかすみは毒づく。四季は嬉しそうに頷く。「だけど、そうしない限り君はあの家に縛られたままだったぞ? 古都律華御三家の古参、鬼造家の娘で唯一の『雨』の能力者。鬼造かすみさん?」 鬼造かすみ。女学校で生活しているみぞれとあられ、ふたりの姉と異なり、まだ十三歳の彼女はその存在を公に知られていない。一族は彼女を養ってはいるがとある事情からふたりの姉と異なり別の場所で生活している。 かすみは次女のあられの身代わりになることがあった。彼女には『雪』の恋人がいて、ときどきこっそり逢いに行くためにかすみと入れ替わっていたのだ。しかし、四季がそれを見抜いたことから、あられとかすみは長女のみぞれに黙って鬼造を裏切らざるおえない状況になってしまったのである。 古都律華の御三家とはいえ没落の途を辿っている鬼造家は『雨』の流れも受け入れたが、彼らを支配するまでには至っていない。天女伝説に関しても真面目に受け止めず『雨』の部族の言う通り神嫁となる生贄の少女を見繕う
「……で。それを見計らって、冴利を唆し、計画を実行に移した、ってわけ?」 「種光って男が伊妻に一番近い人間のようだが、たぶん彼は『雨』のなかで地位が高いものだ。その彼がきっと、天神の娘をこの地へ呼び寄せるために、古都律華の川津家を利用したんだ」 天神の娘を古都律華に殺すよう仕向けた伊妻の残党は、死なない程度に彼女を痛めつけ、自分たちのものにしようとしている。もしかしたら心だけ殺して器だけ奪おうとでもしていたのか。「でもそれって不自然じゃなくて? 天神の娘って噂されてる三上桜……空我桜桃だっけ、彼女がこの大陸に逃がされた経緯には、川津湾が関わってるわけでしょう? 川津が殺そうとしているのにどうして」 「彼がホンモノの篁だよ、かすみ」 かすみと名を呼ばれ、少女はハッとする。「シキ、ここでのあたいはあられよ」 「安心しな。誰も聞いてない。ここで姉のフリをする必要もない」 「だけど」 「さっきの、川津が殺そうとしているのにどうして川津が逃がしたのかって話を思い出せ。かすみが僕にしていることと同じなんだよ」「……一族内で意見が割れている?」「まあそういうことだな。たぶん、天神の娘を殺したら愛する息子に皇位を与えられると信じ込んでいる冴利が空我桜桃を殺すよう話を仕向けたのは当主の川津蒔子の方だ。娘婿の湾はそれ以前に帝の息子だ。おそらく皇一族の血統を川津の家に取り入れようとして失敗したんだろう」 「彼の妻であった米子が死んだからね」 「そう、婿入り先の妻に先立たれた彼は皇一族のもとに戻ることも許されず、だからといって川津の色に染まることもできずにいた。母君と途方に暮れていたところを助けたのが空我樹太朗だよ」「義妹の姉婿にあたる方ね。でも彼が愛妾にしたのが天神の娘だったから、混乱がつづいているんでしょう?」「樹太朗と湾が懇意になれた理由のひとつは川津との繋がりだが、もうひとつが北海大陸という土地の繋がりだ。樹太朗の愛妾であるセツも、湾の母君もカイムの民だ。ふたりが知りあえば話に花も咲く。たぶん、そこで湾はセツから頼まれたんじゃないかな、娘を頼む、なんて…
四季は少女の言葉をひとつひとつ確認しながら、結論を紡ぎ出す。「――ぜんぶ、繋がっていたんだ! 空我伯爵邸の襲撃がはじまりじゃない。すべてのはじまりは」 ――名治四年初冬に起きた伊妻の内乱だ。 この北海大陸で起きた謀反が引き金となって、カイムの民と共存していた神々はすこしずつ狂っていってしまったのだ。 カイムの巫女姫と呼ばれたカシケキクの少女、契と、帝都からやってきた将軍、空我樹太朗が協力し合ったことで乱は年内のうちに制圧された。たしかそのとき敵軍を率いていたのが、伊妻霜一(そういち)……ルヤンペアッテの血を引いた男だ。 霜一は樹太朗によって首を刎ねられ即死している。そして、皇一族に刃を向けた伊妻家は取り潰され、女子供も始祖神に逆らったとしてすべて処刑された。その翌年、潤蕊の夏は豪雨に見舞われた。作物は流され疫病が蔓延し多くのカイムの民が死んだ。民の間では伊妻一族が怨霊となって潤蕊を襲ったのだと畏怖し、彼らと懇意にしていた『雨(ルヤンペアッテ)』の部族を敬うようになった。だが、その年から徐々に冬から春へ変わっていく動きが、緩慢になってゆく。 禁忌の一族として伊妻の名は姿を消したが、彼らは名を変え『雨』とともにこの地に生きている。そう考えれば、辻褄が合う。「伊妻の残党。彼が言っていたのは、このことだったのか……」 「シキ?」 「だとすれば、天神の娘を狙うのも頷ける。鬼造が天神の娘を積極的に消そうとしない理由もそこにあったんだ」 古都律華の御三家、伊妻、川津、鬼造。伊妻の金魚の糞ともいえた鬼造は、伊妻に生き残りがいたことを皇一族に黙って容認していたことになる。伊妻が天神の娘を殺さず手に入れて皇一族に対抗するための武器とすることも、知らされていたのだろう。「鬼造当主は金の亡者だ。権力よりも金を選ぶ彼なら、皇一族よりも多くの金を積んで自分たちを保護するよう依頼した伊妻を選ぶに決まっている」 「じゃあ、そのお金の出所は?」「この女学校そのものだ」 もともとこの潤蕊は『雨』の土地だった。だが、伊妻はその土地に住むルヤンペアッテと婚姻を繰り返し
「おひとよし」 「なんだ、起きていたのか」 四季は寝台の上で横になったまま気だるそうに口を開く幼い少女へ顔を向ける。いつもなら桂也乃が使っている寝台だが、彼女のいない今だからあえて入り浸っているようだ。「それで、どう思った?」 「帝都のごたごたは興味ないんじゃなかったっけ?」 くすくす笑いながら、ボレロ姿の少女は四季の方へ身体を傾ける。「状況が変わったんだ」 「藤諏訪麗が帝都清華の裏切り者で、その黒幕が古都律華の水嶌家出身でいまは神皇帝の正妃の座にのぼりつめている、冴利と、きみが教えてくれた種光という名の男だってことがわかっただけで充分じゃない?」 少女は種光がどこの家のものかわからないと言っていたが、古都律華の人間と考えていいだろう。「皇一族の後継者争いか」 「小環皇子はそのことについて何か言ってました? それとも何も知らされていないのかしら」 「……たぶん後者だろう。彼自身第二皇子で皇位に執着してる様子もなかったからな」 「でも、神皇帝は天神の娘を求め、逆に冴利は弑そうとしている」 「冴利は天神の娘がいなくなれば自分の息子を次期神皇帝にすることができると誰かによって信じ込まされているようだな……暗示か」 「たぶんね」 冴利は神皇帝とのあいだに生れたまだ幼い青竹を何がなんでも次期神皇にしようとしているらしい。神皇帝は冗談だと思って相手にしていないようだが、冴利はすでに古都律華と手を組み、空我伯爵邸の襲撃を命じている。 そこからすべてがはじまったと思った。「不思議に思ったんだよ。なぜ、今になって天神の娘が狙われたのか。なぜ、カイムの地へ彼女は連れ出されたのか」 「この地へ春を呼び戻すためでしょう?」 「なぜこの地に春は訪れていない?」 「神々が強引に開拓を進める人間の所業に怒って冬将軍を留まらせているから。もしくは神嫁という名の生贄を味わい邪悪なものへ変化した一部の神がのさばっているから」 「それは今年に限ったことか? 予兆ならすでにあっただろう?」 「ええ。毎年